Une époque où les femmes japonaises ont été achetées par le Portugal

遠藤周作の書いた小説の中に「沈黙」がある。キリシタン弾圧をテーマにした小説だ。

最近、映画化もされ世界に発信されている。ただ、このキリシタン弾圧の背景にある史実も語らないと片手落ちになる。



After the Portuguese first made contact with Japan in 1543, a large scale slave trade developed in which Portuguese purchased Japanese as slaves in Japan and sold them to various locations overseas, including Portugal itself, throughout the sixteenth and seventeenth centuries. Many documents mention the large slave trade along with protests against the enslavement of Japanese. Japanese slaves are believed to be the first of their nation to end up in Europe, and the Portuguese purchased large numbers of Japanese slave girls to bring to Portugal for sexual purposes, as noted by the Church in 1555. King Sebastian feared that it was having a negative effect on Catholic proselytization since the slave trade in Japanese was growing to massive proporations, so he commanded that it be banned in 1571.

Japanese slave women were even sold as concubines to black African crewmembers, along with their European counterparts serving on Portuguese ships trading in Japan, as mentioned by Luis Cerqueira, a Portuguese Jesuit, in a 1598 document. Japanese slaves were brought by the Portuguese to Macau, where some of them not only ended up being enslaved to Portuguese, but as slaves to other slaves, with the Portuguese owning Malay and African slaves, who in turn owned Japanese slaves of their own.

Toyotomi Hideyoshi was so disgusted that his own Japanese people were being sold en masse into slavery on Kyushu, that he wrote a letter to Jesuit Vice-Provincial Gaspar Coelho on 24 July 1587 to demand the Portuguese, Siamese (Thai), and Cambodians stop purchasing and enslaving Japanese and return Japanese slaves who ended up as far as India. Toyotomi blamed the Portuguese and Jesuits for this slave trade and banned Christian proselytizing as a result.

Some Korean slaves were bought by the Portuguese and brought back to Portugal from Japan, where they had been among the tens of thousands of Korean prisoners of war transported to Japan during theJapanese invasions of Korea (1592–98).[18][19]Historians pointed out that at the same time Hideyoshi expressed his indignation and outrage at the Portuguese trade in Japanese slaves, he himself was engaging in a mass slave trade of Korean prisoners of war in Japan.

Fillippo Sassetti saw some Chinese and Japanese slaves in Lisbon among the large slave community in 1578, although most of the slaves were blacks.

The Portuguese “highly regarded” Asian slaves like Chinese and Japanese much more “than slaves from sub-Saharan Africa”. The Portuguese attributed qualities like intelligence and industriousness to Chinese and Japanese slaves which is why they favored them more.

In 1595 a law was passed by Portugal banning the selling and buying of Chinese and Japanese slaves.

Japan,Portuguese trade in Japanese slaves

 




 

Wikipedia

 

アジア人の奴隷 Esclaves asiatiques

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]

日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人アフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]

フロイス日本史』によると、島津氏豊後侵攻により捕虜にされた領民の一部が肥後に売られ、そこで更に海外に転売されたという[18]

豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じた。また、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[19][20][21]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[22][23]

文禄・慶長の役捕虜として日本に囚われていたうち一部の朝鮮人もまた奴隷としてポルトガル人に買い付けられてポルトガルに連れて行かれた[24][25]。 欧米の一部歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買を阻止した一方で、純粋な民間人と戦争捕虜という売買対象の違いはあるものの、秀吉自身も朝鮮人奴隷の交易を誘発したことを指摘している[26][27]

ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[28]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのはポルトガル人侵入者によって、おそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・デ・バロスに購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[29]

16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[30]。1562年10月23日に記録された遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ(Dona Maria de Vilhena)という上流階級の婦人が保有するアントニオという名前の中国人奴隷について記載がある[31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43][44]。アントニオという名前はエヴォラにおいて男性奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[45]。D. マリアは奴隷の中で特にアントニオを重用していたが、それは彼が中国人だったからである[46]。D. マリアが保有していた15人の奴隷のなかで中国人が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的地位の高さを表している。なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は評価が高く黒人奴隷より高価であったからである[47]。D. マリアが死んだ時、その意思と遺言により12人の奴隷を自由の身分とし、さらに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を彼らに遺している[48]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級出身の探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar)でありソファラ提督であった。D. マリアは二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ(Cristóvão de Mendonça)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simão da Silveira)であった[49][50][51]

中国人の子供たちはマカオで誘拐され、まだ幼いうちにリスボンで売り払われた[52][53]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンの大規模な奴隷集落において、大部分の奴隷が黒人だったものの、いく人かの日本人、中国人の奴隷を見かけたと報告している[54][55][56][57][58]

ポルトガル人は中国人や日本人などのアジア人奴隷をサハラ以南アフリカ出身の奴隷よりもずっと「高く評価していた」[59][60]。ポルトガル人は知性や勤勉さといったものを中国人や日本人奴隷の特質であると見なしていた。このことが奴隷としての高い評価に繋がった[61][62][63][64]

1595年にポルトガルにおいて中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定された[65]

《Wikipedia  より一部引用》

 

 

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バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日天正15年6月19日)に豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来する。

原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。

豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3月16日には大坂城イエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。

しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となっていることを知らされた。これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の6月19日7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モールドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。

『天正十五年六月十八日付覚』原文

  • 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
  • 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
  • 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
  • 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
  • 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
  • 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
  • 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
  • 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
  • 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
  • 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
  • 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、

天正十五年六月十八日     朱印— 天正十五年六月十八日付覚[1][2]

(大意)

  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. (大名が)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. (知行地が)200、3000以上の大名は、キリスト教徒になるには、朝廷や幕府に報告をし、その思し召しの通りにできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 1]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。

ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。

以上 天正15年(1587年)6月18日

『吉利支丹伴天連追放令』原文

  • 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
  • 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
  • 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
  • 黑船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
  • 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上

天正十五年六月十九日     朱印

— 吉利支丹伴天連追放令[3]

(大意)

  1. 日本は自らの神々によって護られている国[注 2]なのだから、キリスト教の国から邪法[注 3]をさずけることは、まったくもってやってはけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。諸国の大名が従っているのは一時的なことなのだ。天下からの法律に従ってそのさまざまなことにその意味を実現すべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教の国の人がその教えにより、信者をどんどん増やそうと考えるのは、前に書いたとおりの日本中の仏法[注 3]を破ることになるということは忘れてはならないから、日本にキリスト教徒を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教徒であるのに自分は違うと言い張るのはけしからん。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
  5. いまから後は、国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。

以上 天正15年(1587年)6月19日

ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった[4]。この直後、秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とする。

「追放令」の起草[編集]

本文の起草は秀吉本人ではなく、秀吉の側近で主侍医でもあった施薬院全宗とされている。なお、全宗の師である曲直瀬道三は、ルイス・フロイス『日本史』よればこの追放令発布以前にキリスト教に入信し(天正12年、1592年)、「ベルショール」の洗礼名を受けている[5]

追放令の原因[編集]

秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。

  1. キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
  2. キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため。
  3. ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため
  4. 秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。

1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉の言い分は「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである。秀吉がこのような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐に向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはコエリョの軽率な行動を厳しく非難しており、コエリョの行動に問題があったことは確かなようである[6]。キリスト教の拡大については、6月18日の11か条の「覚書」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。

2.のキリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊するなどといったことが有馬氏大村氏などで行なわれていた。秀吉はコエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と質問しているが、コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」(ルイス・フロイス「日本史 4」)と回答している。

3.の人身売買説に関しては、11か条の「覚書」に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止する一文がある一方[注 4][注 5]、翌日の「追放令」にはそのような文言は見当たらない。秀吉は1587年の九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行なわれていたことについて当時のイエズス会の布教責任者であったコエリョを呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令を発布している。ただし、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[7][8]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。

4.の女性問題で秀吉が激怒したと言うのは(フロイス日本史)、正確には「女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを讒言した」というものであり、「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられない。

追放令後[編集]

禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。

日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令も言い回しなど基本的な部分においてこの秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。

参考文献[編集]

同時代史料[編集]

研究文献[編集]

  • 太田淑子編、『日本史小百科 キリシタン』、東京堂出版
  • 安野眞幸、『バテレン追放令 16世紀の日欧対決』日本エディタースクール出版部、1989年
  • 黒住真、「キリシタン禁制と近世日本 秀吉「天正十五年六月十八日付覚」をめぐって」『複数性の日本思想』ぺりかん社、2006年
  • 高瀬弘一郎、『キリシタンの世紀 -ザビエル渡日から「鎖国」まで-』、岩波人文書セレクション、2013年、

脚注[編集]

  1. ^ 八家九宗のことで、日本に広まった仏教の南都六宗倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗)に、天台宗真言宗を加えて8つとし、さらに禅宗あるいは浄土宗を加えた9つの宗派を指す。
  2. ^ 神国」や「神州」という語は、対外的な緊張が高くなったときに用いられた。
  3. a b 本来は「邪法」の対語は「正法」であるが、ここではこれを仏法(仏教そのもののこと)と言い表している。
  4. ^ 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版には、「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録や天正遣欧使節の報告書にはヨーロッパ人がアジア人を奴隷貿易していたことが書かれている」と記されているが、これは出典が不明な上、朝鮮出兵の時代の日本になぜか「記者」がいたり、当時は外国人が入ることを許されなかった朝鮮においてヨーロッパ人がアジア人を使役していたりなど、事実と異なる記述がある。このため信憑性を疑問視する説もある。
  5. ^ その他の条文で「商人は出入り自由」としていること、後の朝鮮出兵において朝鮮人捕虜を日本に連れてきて労働力としていることなどから、これは主要な目的ではなく、明征服にあたって少しでも人口を減らしたくなかったために盛り込まれた条項と推測する説もある。 山本博文「天下人の一級史料」より

出典[編集]

  1. ^ 原文は伊勢神宮神宮文庫所蔵の『御朱印師職古格』
  2. ^ 高瀬(2013年)より引用。
  3. ^ 原文は松浦史料博物館蔵の松浦家文書。
  4. ^ 日本の「鎖国」」 、 2011年4月4日閲覧。
  5. ^ 大鳥蘭三郎「曲直瀬一溪道三の入信問題に就て」(『日本医史学雑誌』1307号)
  6. ^ 高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」『キリシタン時代の研究』1997 岩波書店
  7. ^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan)Vol. 59. Sophia University.. p. 463.
  8. ^ Monumenta Nipponica: Studies on Japanese Culture, Past and Present, Volume 59, Issues 3-4. Jōchi Daigaku. Sophia University. (2004). p. 4632014年2月2日閲覧。.

関連項目

https://en.wikipedia.org/wiki/Nanban_trade#/media/File:NanbanGroup.JPG
Japanese painting depicting a group of Portuguese foreigners/Public Domain
https://en.wikipedia.org/wiki/Nanban_trade#/media/File:Nanbansen2.jpg
Nanban ships arriving for trade in Japan. 16th-century /Public Domain
https://en.wikipedia.org/wiki/Nanban_trade#/media/File:Portuguese_traders_landing_in_Japan.jpg
Portuguese traders landing in Japan / Public Domain
https://en.wikipedia.org/wiki/Nanban_trade#/media/File:Hasekura_in_Rome.JPG
The samurai Hasekura Tsunenaga in Rome in 1615 (Coll. Borghese, Rome)/Public Domain

REF: http://blog.livedoor.jp/rurudonoizumi/

戦国時代の日本はイエズス会の宣教師によって、日本人の女性たちがローマに奴隷として、売り渡されているので
す。キリシタン大名たちは、鉄砲は真似して作れても、火薬の硝石がなかったために、硝石と引き換えに人身売買
を行っていたのです。


徳富蘇峰さんは、この人身売買について、大村由己さんの「九州動座記」には、「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおそばず、豪族の徒輩までが、己のしもべや郎党はおろか、自分の妻まで、南蛮船で運ぶ。それは、獣のごとくしばって船内に押し込ゆえ、泣き叫び、喚くさまは地獄のごとし」これは、大村由己さんが豊臣秀吉のお供で、九州に行ったときに見聞録なのですが、徳富蘇峰さんがそれを『近世日本国民史』に取り入れたところ、二版から憲兵の命令で削りとられてしまいました。イエズス会士は、真の布教よりも、諸大名に取り入って硝石契約が主のようでした。信長のところには、ルイス・フロイスが招かれて、京に住まいをもらい、堺港からマカオへの航路を開いたのも天下統一をねらっての信長が、火薬の硝石を入手するためと考えられます。
天正少年使節として、宣教師ワリニャーノと共に、大友、大村、有馬の少年がローマに向かいます。ところがこの少年たちが寄港先で見たのが、膨大な日本人奴隷であったのです。


そのことは少年たちにとって、どれほどの驚きであったことでしょう。有馬のオランダ教科書にその文が使用されていま
すがミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは、「行く先々で同じ日本人が、数多く奴隷にされ、鉄の足枷をはめられ、ムチうたれるのは、家畜なみで見るに忍びない」と言い、「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りはもっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」すると大村純忠のさしむけた少年マルテーは「われらと同じ日本人がどこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を縄で繋がれて我々を見て、哀れみを訴える眼差しは辛くてならぬ・・・。肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしに繋がれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されて行くのを正視できるものではない。我々の見た範囲で、ヨーロッパ各地で50万と言うことはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう。」これら人売のことでは、ポルトガル王のジョアン三世から、ローマ法王庁に、「ジバングは火薬一樽と交換に、50人の奴隷を差し出すのだから、神の御名において領有することができたら、献金額も増すことができるでしょう。」という進言があり、イエズス会からの戦闘教団が1541年4月7日八年をかけて喜望峰周りで日本についたのだと言われています。

 

明治のからゆき渡海前、すでに戦国期から男女のからゆき売仔がまず自分らの意思と関係ないところで、奴隷棄民という
形の航海の軌跡が弱い貧者に敷かれてあったのです。」山田盟子著(ウサギたちが渡った断魂橋より。)日本に布教に来たイエズス会の宣教師たちは、日本人を奴隷として、ローマに連れて行っていたことは、フロイスの「日本史」には書かれていません。奴隷というのは、他国のことであり、まさか日本で行われていたとは、信じられないことです。イエズス会の宣教師たちは、一般の人たちよりも大名に洗礼を授けて、日本侵略に熱心であったようです。私は、日本のキリスト教布教に貢献したのは、鹿児島出身の里見ヤジローであると思っています。神さまは、殺人の罪を犯して逃亡していたヤジローの霊魂を救うために悔い改めへと導いてくださいました。

 

硝石と交換に人身売買をして、キリシタン大名になった人たちは、貿易の利益がなくなると信仰も棄ててしまった人たちもいますが、強い信仰をもって、最後まで神さまを大切にしたキリシタン大名の人たちもおられました。マリアさまは、人間とイエスさまの仲介者として、日本人に聖霊の恵みを与え、人びとを悔い改めへと導いてくださったのです。人びとは、マリアさまにロザリオの祈りを唱え、神さまを大切にし、この世の儚い生命よりも、天国の生命に希望をもって生きたのです。